解説

ハイエクが警告した「新しい社会主義」——手厚い社会福祉と再分配による、緩やかで気づかれない没落。その最初の実例が、戦後のイギリスでした。

第二次世界大戦中、イギリスは配給制や価格統制、労働力の動員といった統制経済を敷いていました。しかしこれは何もイギリスに限った話ではありません。日本でも学徒動員によって子どもたちまでもが軍需工場で働かされ、米や衣料は配給切符なしには手に入らなくなりました。アメリカでもガソリンや砂糖が配給制になり、ドイツでもソ連でも、戦争を遂行するあらゆる国が、程度の差こそあれ統制経済を敷いていました。戦時中の統制経済は、いわば戦争という非常事態にともなう「一時的な処方箋」として、世界共通の現象だったのです。

問題は、戦争が終わった後でした。

1945年、大戦を勝利に導いたはずのチャーチル率いる保守党は、なんと総選挙で労働党に大敗を喫します。政権を握ったアトリー率いる労働党は、戦時中の統制経済を平時に戻すのではなく、むしろそのまま福祉国家建設の土台として使い続けました。象徴的なのは、戦争中でさえ実施されなかったパンの配給が、皮肉にも戦争が終わった1946年から1948年にかけて実施されたことです。「戦争が終われば統制経済も終わる」はずが、イギリスでは統制経済がそのまま平時の国家運営の型として定着してしまったのです。

「ゆりかごから墓場まで(from the cradle to the grave)」

戦後のイギリスで生まれたこのスローガンは、当時、世界で最も進んだ福祉国家の理想を象徴していました。1948年、国民保健サービス(NHS)が創設され、医療は原則無料に。石炭、鉄道、電力、ガス、鉄鋼——基幹産業は次々と国有化されました。

誰もが「これで国民は守られる」と信じていました。国有化とは、まさにハイエクの言う「生産手段の統制」そのものです。しかしそれは、ソ連のような急激な恐怖政治としてではなく、選挙を経た民主的な手続きの中で、静かに、緩やかに進行しました。だからこそ国民は、自分たちが何を手放しているのか、長い間気づくことができませんでした。

手厚い保護は、労働組合を異常なまでに強大化させました。国有化された企業では、経営陣より労働組合の方が強い発言力を持つことも珍しくなく、ストライキは日常の風景になっていきます。1970年代には、所得税の最高税率が83%、さらに株式配当などの「不労所得」には追加課税が課され、実質98%に達しました。「働いて稼いでも、ほとんど国に持っていかれる」——多くの企業家、富裕層、才能ある人材が国外へと流出していきます。

決定打となったのが1970年代の二度の石油危機でした。1973年から74年にかけて、炭鉱労働者のストライキと燃料不足により、政府は企業の電力使用を週3日に制限する「週3日操業」を導入せざるを得なくなります。工場は止まり、テレビ放送は深夜前に打ち切られ、街は暗闇に包まれました。

1976年には、ポンド危機のあおりを受けて、あろうことか先進国であるはずのイギリスがIMFに緊急融資を要請する事態にまで追い込まれます。融資額は23億ポンド。かつて世界に君臨した大英帝国が、財政破綻寸前の国として国際機関に頭を下げたのです。

そして1978年から79年にかけての冬、「不満の冬(Winter of Discontent)」と呼ばれる大規模ストライキの波が国を襲います。ゴミ収集労働者のストライキでロンドンの広場にはゴミの山が積み上がり、一部地域では墓掘り労働者までがストライキに入り、遺体の埋葬すら滞る事態となりました。

この頃、イギリスは世界からこう呼ばれるようになっていました。

「ヨーロッパの病人(The Sick Man of Europe)」

戦争が生んだ統制経済を、平時になってもなお続けてしまったこと。手厚い福祉、強すぎる労働組合、高すぎる税率、国有化された非効率な産業。善意から始まったはずの「大きな政府」が、国民の勤労意欲を奪い、企業の競争力を奪い、ついには国家の威信までも奪い尽くした——これが「英国病」の正体です。

イギリスは、ハイエクの警告する「隷従への道」を、確かに歩みかけていました。しかし幸運なことに、この国はソ連のような最悪の結末に至る前に、方向転換を果たします。この病がどん底まで進行しきった1979年、一人の女性が首相の座に就きます。マーガレット・サッチャーです。彼女がこの病をどう治療したのかは、第5章で詳しく見ていきます。