解説

サッチャーが英国病と格闘していたのと同じ時期、大西洋の向こう側でも、もう一つの大国が同じ病に蝕まれていました。1980年代初頭、アメリカもまたイギリスと同様、スタグフレーションに苦しんでいました。

1971年のニクソン・ショックによる金本位制の終焉、1973年と1979年の二度の石油危機を経て、1980年のインフレ率は13%を超えます。

前任のジミー・カーター大統領が1979年に行った演説は、後に「malaise(倦怠)演説」と呼ばれ、当時のアメリカ社会に漂う閉塞感を象徴するものとなりました。

カリフォルニア州知事を務めた俳優出身の政治家、「偉大なる伝達者」ロナルド・レーガンは、この閉塞感を打ち破る候補として1980年の大統領選挙を制します。

1981年の就任演説で、レーガンはこう宣言しました。「政府は私たちの問題を解決する存在ではない。政府こそが問題なのだ」。

レーガンが掲げた「サプライサイド経済学」の柱は減税でした。ケンプ=ロス法案を土台にした1981年の経済再建税法で所得税の最高税率を70%から50%へ引き下げます。

さらに1986年には、民主党のビル・ブラッドリー上院議員らとも協力した超党派の税制改革法により、数々の優遇税制を整理・簡素化する代わりに最高税率を28%にまで引き下げました。

同時に、航空・トラック輸送・金融をはじめとする産業への規制も大幅に緩和され、新規参入と価格競争が各業界で一気に活発化しました。

インフレ対策の切り札となったのが、カーター政権末期に就任し留任した連邦準備制度理事会(FRB)議長ポール・ボルカーによる厳格な金融引き締めでした。

政治的には不人気となることが確実なこの引き締め策を、レーガンは政権発足後も一貫して支持し続けました。

フェデラルファンド金利は一時20%近くにまで引き上げられ、この結果1981年から82年にかけてアメリカ経済は深刻な不況に陥り、失業率は10.8%という戦後最悪の水準に達します。それでもレーガン政権はこの痛みに耐え抜き、目先の支持率よりも長期的なインフレ克服を優先させました。

レーガン自身、俳優時代には映画俳優組合の委員長を務めた経験を持ち、労働組合の内部事情を熟知していたことも、この後の対応に影響を与えたと言われています。象徴的だったのが1981年の航空管制官ストライキへの対応です。ストライキに踏み切った1万1000人を超える管制官に対し、レーガンは48時間以内の職場復帰を命じ、応じなかった管制官のほぼ全員を解雇するという断固たる措置を取りました。政府がストライキの圧力に屈しないという強いメッセージが、社会全体に広がります。

痛みを伴った引き締めは、やがて実を結びます。インフレ率は1980年の13.5%から1980年代半ばには4%程度にまで低下し、失業率も1982年のピークから1988年には6%を下回るまで改善しました。

ダウ平均株価は1981年の950ドル前後から1989年には2700ドル前後へとほぼ3倍に上昇し(1987年の急落「ブラックマンデー」はあったものの)、アメリカ経済は力強い成長軌道に回帰します。

ただし、減税と同時に冷戦下の「力による平和」を掲げて国防費が大幅に増強されたため、連邦債務残高は在任中に約9000億ドルから2兆7000億ドルへと3倍近くに膨らむという副作用も残しました。

旧来の製造業が集中する「ラストベルト」地帯の苦境や、所得格差の拡大が進み始めたことも、この時代の影の側面として指摘されています。しかしこの財政負担は、のちに人類史に刻まれる大きな成果と引き換えのものだったとも言えます。

この巨額の国防費こそが、ソ連という超大国を軍拡競争で疲弊させ、その体制の限界を露呈させる大きな力の一つとなったからです。

規制緩和は金融の世界にも及びました。1982年のガーン=セントジャーメイン法により貯蓄金融機関への規制を緩め、1985年には所得税の課税区分をインフレ率に連動させる「ブラケット・クリープ」対策を導入するなど、細部にわたる制度改革が積み重ねられていきます。

こうした一連の改革のもと、アメリカ経済は1983年から1989年にかけて平均で年率4%前後という力強い成長を続け、雇用者数は在任中に1600万人以上増加しました。

「レーガノミクス」は、税と規制を減らせば経済は自ら成長するという小さな政府の理念を、世界最大の経済大国で証明してみせたのです。そしてその強い経済力に支えられた軍拡競争は、後にソ連経済を疲弊させ、冷戦終結への一因ともなっていきます。

大西洋を挟んだ英米で、ハイエクの思想を柱とした二人の指導者――サッチャーとレーガン――が、奇しくも同じ時代に「小さな政府」を掲げました。

この事実は、単なる偶然の一致とは言い切れません。二人が共有した自由市場への信念と、それに裏打ちされた経済的・軍事的な強さこそが、ソ連という社会主義国家の牙城を揺るがす大きな原動力の一つとなったのです。

皮肉なことに、ハイエクが警告した「あからさまな社会主義」の本家本元であるソ連が、レーガンとサッチャー、二人の「小さな政府」の信奉者によって、崩壊へと追い込まれていくことになりました。1991年のソ連消滅は、レーガンが大統領を退任してから3年足らず後の出来事でした。

思えばハイエクの著書『隷属への道』は、社会主義政権の精神的支柱であったマルクス思想とは、まさに対極に位置する書でした。

政府による経済の計画と統制は必然的に自由の喪失へと行き着く――この思想が、サッチャーとレーガンという二人の指導者を通じて現実の政策として結実し、そして最終的に、計画経済を体現していたはずのソ連という国家そのものを過去のものにしたのです。

一冊の思想書に込められた警告が、20世紀最大の全体主義国家の崩壊にまでつながった――これほど大きな知的勝利の物語は、そう多くはないでしょう。

東西両陣営で数億の人々が、この体制転換によって新たな自由を手にすることになりました。これは、人類の幸福にとって計り知れない意義を持つ出来事だったと言えます。