解説

第1章で見た通り、1979年のイギリスは「ヨーロッパの病人」と呼ばれるどん底にありました。この病を治療する使命を背負って登場したのが、1975年に保守党党首の座をエドワード・ヒースから奪い取った、マーガレット・サッチャーです。ソ連の軍事機関誌が彼女を「鉄の女(Iron Lady)」と呼んだのは1976年のこと。この異名は、やがて世界中で使われるようになります。

保守党内では長らく「穏健路線」が主流でしたが、サッチャーはこうした流れに真っ向から反旗を翻す存在でした。サッチャーの経済思想の核には、ハイエクの著作がありました。保守党の政策担当者たちが「現実路線」を説いた際、サッチャーは自らの鞄からハイエクの著書『自由の条件』を取り出し、演台に叩きつけてこう言い放ったと伝えられています。「これが、私たちの信じるものです」。

1979年の首相就任後、蔵相ジェフリー・ハウのもとで最初の予算から改革は始まりました。付加価値税を8%・12.5%の二段階から一律15%へと引き上げる一方、所得税の基本税率を33%から30%へ引き下げ、直接税から間接税中心の税体系へと転換します。所得税の最高税率は83%から60%へ、さらに1988年には蔵相ナイジェル・ローソンのもとで最終的に40%にまで引き下げられました。就任からわずか数か月で、戦後長らく続いていた為替管理(外国為替取引の規制)も撤廃し、資本の自由な移動を解禁します。

次に、英国病の元凶であった国有企業を次々と民営化します。1984年の英国テレコムを皮切りに、英国ガス、英国航空、英国鉄鋼、水道、電力——8年余りで50を超える国有企業が民間に売却され、その売却収入は総額400億ポンドを超えました。「テル・シド」と呼ばれた英国ガスの株式公募キャンペーンのように、一般国民が株主となる「大衆資本主義」も同時に推進され、公営住宅の入居者には自宅を購入する権利(Right to Buy)が与えられ、100万戸を超える住宅が持ち家化されます。

最大の正念場となったのが労働組合との対決でした。1984年から85年にかけて、全国炭鉱労働組合はストライキに突入し、丸一年に及ぶ激しい労使紛争が繰り広げられます。1982年のフォークランド紛争での勝利で得た高い支持率を背景に、サッチャー政権はここで一歩も譲らず、最終的に組合側の敗北という形で決着させました。さらに一連の労働法改正により、事前の組合員投票なしのストライキや、無制限のピケッティングを規制し、かつて「もう一つの政府」とまで呼ばれた労働組合の力を大きく削ぎました。1986年には「ビッグバン」と呼ばれる金融市場の大規模自由化を実施し、株式売買手数料の自由化や外国金融機関の参入規制撤廃によって、ロンドン・シティを世界屈指の金融センターへと押し上げます。

もちろん、この転換に痛みが伴わなかったわけではありません。改革初期の1980年から81年にかけては深刻な不況に見舞われ、失業率は戦前以来の高水準となる300万人超に達しました。炭鉱や造船、鉄鋼といった旧来の産業が集中する北部の街々は、長期にわたる苦難を強いられます。

金融政策の面では、蔵相ハウが導入した「中期財政戦略(MTFS)」のもとでマネーサプライの伸び率に数値目標を設け、インフレの根を断とうとしました。労働組合の組合員数は、1979年の約1300万人から1990年には1000万人を割り込むまでに減少し、かつて「もう一つの政府」とまで恐れられた組合の政治的影響力は大きく後退します。「大衆資本主義」の掛け声のもと、株式を保有する成人の割合も1979年の7%から1990年には25%にまで拡大しました。

それでもサッチャーは「レディは方向転換しない(The lady’s not for turning)」という有名な言葉通り、路線を変えませんでした。その結果、インフレ率は1980年の18%前後から1980年代半ばには一桁台にまで低下し、1980年代後半には力強い経済成長(いわゆる「ローソン・ブーム」)を取り戻します。サッチャーは1979年、83年、87年と三度の総選挙に連続で勝利し、実に11年にわたって政権を担いました。20世紀のイギリスで、これほど長期にわたり首相の座を維持した人物はほかにおらず、その在任期間の長さ自体が改革の徹底ぶりを物語っています。最終的には1989年に導入した人頭税(コミュニティ・チャージ)への激しい反発から1990年に党内から退陣を迫られますが、彼女が成し遂げた改革の骨格は、1997年に誕生したブレア労働党政権にもほぼそのまま引き継がれ、英国病はついに過去のものとなったのです。ハイエクが警告した「隷従への道」を、選挙という民主的手続きの中で自ら引き返してみせた——サッチャーの11年間は、その最も鮮やかな実例として歴史に刻まれています。