









解説
イギリスが「隷従への道」を歩みかけて引き返した国だとすれば、アルゼンチンは、その道を最後まで——統制経済化、言論統制、そして国家破綻の繰り返しという行き止まりまで——歩き通してしまった国です。
20世紀の初頭、「あの人はアルゼンチン人のように金持ちだ(rich as an Argentine)」という言葉が、ヨーロッパで実際に使われていました。
信じがたい話に聞こえるかもしれません。しかし1900年代から1910年代にかけて、アルゼンチンの一人当たりGDPは、フランスやドイツ、イタリアを上回り、世界トップ10に入る豊かさを誇っていました。広大な肥沃な大地から生み出される牛肉と小麦がヨーロッパ中に輸出され、首都ブエノスアイレスは「南米のパリ」と呼ばれる繁栄を謳歌します。イタリアやスペインから、豊かさを求めて大量の移民が押し寄せたほどです。
日本人にとって、この時代のアルゼンチンの豊かさを最もわかりやすく物語ってくれるのが、アニメ「母をたずねて三千里」です。主人公マルコの母は、家族のためにイタリア・ジェノヴァからはるばるアルゼンチンへ出稼ぎに渡ります。現代の私たちの感覚で言えば、東南アジアやアフリカの人々が、職を求めて日本や欧米といった先進国へ出稼ぎに行くのと同じ構図です。しかし原作が書かれた19世紀末当時、出稼ぎ先だったのはヨーロッパではなく、アルゼンチンでした。当時すでにある程度豊かだったイタリアよりも、アルゼンチンの方がはるかに豊かで大国だったからこそ、母は海を渡ったのです。今の私たちには想像しづらいこの「逆方向の出稼ぎ」こそが、当時のアルゼンチンがどれほどの経済大国だったかを何より雄弁に物語っています。
この繁栄が暗転する転機となったのが、1946年に大統領に就任したフアン・ペロンでした。
ペロンは、イギリス資本が保有していた鉄道会社や電話会社を次々と国有化し、中央銀行も政府の管理下に置きます。労働者には有給休暇やボーナス(アギナルド)、年金制度を次々と与え、巨大な労働組合連合(CGT)を政権の支持基盤として育て上げました。輸入品には高い関税をかけ、国内産業を保護する「輸入代替工業化」を推し進めます。
そしてハイエクが警告した通り、経済の統制は、やがて言論の統制へと及んでいきます。ペロン政権は1951年、当時最大の発行部数を誇り政権を批判していた新聞社「ラ・プレンサ」を接収し、事実上の言論封殺を行いました。反対派の政治家やジャーナリストへの弾圧も強まり、経済の自由が失われる過程で、確かに個人の自由も失われていったのです。
一見、労働者に優しい理想的な政策に見えました。しかし、これらの政策はすべて、国際競争力を失った非効率な産業を延命させ、財政を際限なく膨張させるものでした。
ペロン失脚後も、この「ペロン主義」という名の大きな政府路線は、形を変えながらアルゼンチン政治に深く根を張り続けます。軍事クーデターと民政移管を繰り返す不安定な政治の中、財政赤字は積み上がり、通貨は繰り返し信認を失っていきました。
そして1989年、ついにハイパーインフレが牙をむきます。年間インフレ率は3000%を超え、店の値札は一日に何度も書き換えられ、国民は給料日にすぐさま食料や日用品に換えなければ、その価値が目減りしてしまう恐怖に怯えました。あまりの混乱にアルフォンシン大統領は任期を残して辞任に追い込まれます。
1990年代、メネム政権はペソと米ドルを固定する「兌換制度」で一時的にインフレを抑え込みますが、これは根本的な財政再建を伴わない対症療法でした。2001年、ついに限界が訪れます。政府は預金封鎖(コラリート)に踏み切り、怒った国民が鍋やフライパンを叩きながら街に繰り出す抗議行動が全国に広がりました。この年、アルゼンチンはわずか2週間で5人もの大統領が入れ替わるという異常事態に陥り、当時史上最大規模となる約1000億ドルの債務不履行(デフォルト)を起こします。
その後も2000年代のキルチネル政権下で、YPF石油会社の再国有化、年金基金の国有化、価格統制、資本規制といった大きな政府路線が繰り返され、インフレと通貨危機は慢性病のように再発を続けました。そして2023年、インフレ率は再び200%を超え、国民の4割以上が貧困線以下の生活を強いられる事態にまで陥ります。
世界有数の富裕国が、一世紀余りをかけて発展途上国へと転落した——イギリスと違い、アルゼンチンは方向転換のタイミングを何度も逃し続けました。この壮大な没落のドラマの果てに、2023年、型破りな一人の経済学者が大統領の座に就きます。ハビエル・ミレイです。彼がどのようにこの慢性病に「劇薬」を投与したのかは、第12章で見ていきます。





